桂由美さん死去 神田うの、訃報に悲痛 デザイナーの大先輩「心から尊敬しておりました。大好きでした」
- 29
- 121
- 52
富士山・八ヶ岳・南アルプス周辺を中心に、季節別・難易度別で紹介する山梨のハイキング案内ブログ 山梨県は、富士山をはじめ八ヶ岳や南アルプス、奥秩父など、日本有数の山岳エリアに囲まれたハイキングの宝庫です。本ブログでは、山梨県内のおすすめハイキングコースを初心者向けから中級者向けまで、難易度別・季節別にわかりやすく紹介します。整備された登山道で気軽に楽しめる散策コース、富士山を望める絶景スポット、家族や子ども連れでも安心して歩けるルートなど、目的に応じた情報を網羅しています。アクセス方法や所要時間、見どころ、注意点も詳しく解説し、初めて山梨でハイキングをする方にも役立つ内容を心がけています。四季折々の自然や山梨ならではの景色を満喫できるコース案内を通して、安全で楽しいハイキング計画をサポートするブログです。
タレントの神田うの(48)が30日、所属事務所を通じ、今月26日に94歳で死去したことが分かったデザイナーの桂由美さんを追悼した。 【写真】26日に亡くなったデザイナーの桂由美さん 桂さんの訃報は30日、公式サイトで発表された。94歳だった。葬儀は行わず、追悼ショー(しのぶ会)を後日開催する予定。 親交のあった神田は、「桂由美先生の突然の訃報に接し、ただただ呆然としております」と衝撃の深さを打ち明け「先生には、いろんな会にてお目にかかり、今年も先生主催のお茶の会にお声がけ下さったりといつもお心に掛けて頂きました」と振り返った。 「いつも素敵にオシャレをされて、精力的に活動をされていらした先生。ウェディングドレスデザイナーとしてはもちろんの事、『デザイナー桂由美』としてパワフルに社会に貢献された先生の生き方は本当に素敵でした」と尊敬の念を吐露。 「私、若かりし頃はモデルとして先生のドレスを着させて頂いたり、ウェディングドレスのデザイナーとして大先輩の先生の背中を追いかけて参りました」とこれまでの歩みを振り返り、「“うのちゃんとブライダル業界を一緒に盛り上げる企画を是非しましょう!”と言って下さっていた先生…、残念ながらそれはもう叶いません…。先生を心から尊敬しておりました。大好きでした。桂由美先生どうかごゆっくりお休み下さいませ。どうぞ安らかにお眠り下さいませ…」と思いを込めた。
色々人間関係あるんですね儂ら平民にはないけど
ブライダルデザインで世界的に活躍したファッションデザイナーの桂由美さんが26日亡くなったことを株式会社ユミカツラインターナショナルが明かした。94歳だった。桂由美さんは1965年から日本初のブライダルファッションデザイナーとして活躍。日本中にウエディングドレスを広めたといっていい、まさに第一人者だ。そんな桂由美さんの仕事への情熱が伝わってくる過去の記事を振り返る。(「AERA dot.」2018年9月2日配信の記事を再編集したものです。本文中の年齢等は配信当時) * * * もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。ひょんなことから運命は回り出します。人生に「if」はありませんが、誰しも実はやりたかったこと、やり残したこと、できたはずのことがあるのではないでしょうか。昭和から平成と激動の時代を切り開いてきた著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらい、「もう一つの自分史」を語ってもらいます。今回はブライダルファッションデザイナーの桂由美さんです。 もうひとつの人生があったとしたら……。私、ふたつあるんです。ひとつは演劇の世界。もうひとつはあまりお話ししたことはないのですが、実は政治家の道もあったんです。 母親はきょうだいが多く、高等教育をあきらめざるをえなかったため、娘たちだけは大学へ行かせたいと思っていた。父は旧郵政省の官吏で、当時の給料は低かった。そこで母親は洋裁学校を立ち上げ、長女に後継者になってほしいと望んでいた。 私は共立女子大学の出身で、卒業間際の学長は元首相の鳩山一郎先生の妻、鳩山薫先生。学生委員をしていた私は学長先生との接点も多かったんです。 ちょうどそのころ、鳩山一郎先生が「友愛青年同志会」を設立なさった。各大学に声をかけたら、政治家を目指す男の子は大学にいっぱいいますから、男子学生は喜んで集まってきた。しかし、婦人部を取りまとめる若い女性がいない。そこで鳩山薫学長から白羽の矢を立てられたのが私だったんです。結局卒業後も、婦人部長の活動は続き、衆議院選に出る鳩山一郎先生のために、選挙カーに乗ってウグイス嬢もやったんですよ。 母親の洋裁学校を手伝うようになってからも、政界へのお誘いはありました。当時都議会議員だった鯨岡兵輔先生(元衆議院副議長)が1963年に国政に立候補されるとき、都議会の議席が空くから選挙に、というんです。「きっとやれる。私がバックアップするから」と。 母は慌てましてね。なにしろ跡取りですから。「お願いですから、この子を政治の世界に誘うのだけはやめてください」って頭を下げていたのを覚えています。
結局、政治家の道には進みませんでしたが、当時、鳩山一郎先生が私におっしゃった一言は、今も指針になっています。「人間は、無限に伸びる可能性を持っている。だからこの先どんな道に進んでも、もうこれまでだ、と自分であきらめるのはよしなさい。少しでも上を目指してみなさい。必ず伸びますから」って。 母の洋裁学校を継がなければならないという私の家庭事情は理解してくださっていました。若者への最大限のエールだったんですね。 ――政治家ではない、もう一つの自分史は、演劇の道。文学座付属演劇研究所第1期生に応募し、合格者60人の一人となる。政治の道に誘われる前は、一日の半分を大学で過ごし、もう半分は稽古場で過ごしていた。 私には子供のころから、演劇界に進みたいという夢がありました。俳優になろうなどと思ったことは一度もなくて、舞台が作りたかった。石井ふく子さんのようなプロデューサーになりたかったんです。 大学1年のとき、一度は文学座の研究生にもなりましたが、やっぱり1年間、文学座にいて感じたのは、共立では井の中の蛙だったんだと。みんなからちやほやされて、天才だ、なんていわれて……。 文学座ともなると、その程度の才能の持ち主なんて、掃いて捨てるほどいるわけですよ。そういう人たちに演劇論をふっかけてもコテンパンにやられてしまう。学校演劇をやってる分にはよかったんでしょうけど、この世界に入ってみたら、とんでもない人がいっぱいいるんだなと。限界を悟りました。 グループリーダーの芥川比呂志さんに、母が直接相談したんです。作家の芥川龍之介さんのご長男です。母は、私に洋裁学校を継がせたがっていること、私が大学生活と両立していることなどをお話ししたら、芥川さんは「これからの時代、大切なのはインテリジェンス(知性)だ。大学でしっかり、知性を磨いていらっしゃい」。敬愛する芥川さんの言葉ですから、素直に受け止めました。
それで、大学に戻って講義を聴いているうちに、ふと気づいたんです。私は縫うのは下手だけど、デザイナーとかスタイリストとか、ファッションの世界にはいろんな道があるんだって。 ――演劇の道。政治の世界。さまざまな分かれ道があったが、次第に一本の道に収斂していく。大学の後半には文化服装学院の夜学にも通い、洋裁の基礎を学ぶ。卒業後は、パリに1年間留学。その後、乗り出したのはブライダルの世界だった。 1960年、ローマオリンピックの年に、日本のファッション界としては初めて、15人の視察団を組んでヨーロッパに渡りました。ローマから各地を巡って、最後はパリ。私はそこに残って、1年間、立体裁断を徹底的に学びました。 帰国後、その技術を学校の生徒たちに伝授するんですけど、当時の洋裁学校は花嫁修業の場。母の後を継いでも、これで終わるのかな……って歯がゆい思いをしていました。 日本ではまだ誰もやっていない婚礼衣装をやろうと思ったんです。ファッションのなかで一番、演劇性を持っている。結婚式っていうのは一生に一度の、プライベートのイベントですからね。ファッションの中で最も、私が培った演劇的要素が生かせるジャンルなんですよ。 そのころの結婚式はまだまだ和装が中心。ドレスで挙式する人は、全体の3%ほどしかいませんでした。ビジネスとしては厳しい。でも、そのとき、「自分であきらめるのはよしなさい。少しでも上を目指してみなさい」という鳩山先生の言葉が私の背中を押してくれました。 ――桂由美ブライダルサロン、という小さな店を開いたのが1964年。人生を決定づけたのは、世界的なデザイナー、ピエール・バルマンとの出会いだった。 オープンから3年後ぐらいだったでしょうか。京都の貸衣装店から、デザインを依頼されたんです。私ともう一人、デザイナーとして起用されたのが、なんとピエール・バルマンだったんです。それを聞いて、一も二もなくお受けしました。皇族の方のイブニングドレスをデザインしたほどの世界的デザイナーです。
日本のブライダルファッションの草分けとして知られるデザイナー、桂由美さんが2024年4月26日に永眠されました。94歳でした。
桂由美さんは、1930年に東京で生まれ、1964年に日本で初めてとなるブライダルサロンをオープンしました。その後、和のテイストを取り入れた斬新なデザインで人気を博し、70万人を超える花嫁にドレスを提供するなど、日本のブライダル業界の発展に大きく貢献しました。
桂由美さんの訃報を受け、多くの著名人が追悼の言葉を述べています。
桂由美さんの功績は、日本のブライダル文化に深く刻まれることでしょう。ご冥福をお祈りいたします。
21日・肺がんなどで亡くなったことが報じられた、タレントの高見知佳さん。
芸能界からはお悔やみのメッセージが、続々と届いています。

高見さんと番組で共演した、キャスターの堀尾正明さんは所属事務所を通じコメントを発表しました。

【 堀尾正明さん コメント 】
「『NHKスタジオパークからこんにちは』では、5年間一緒に司会を務めさせていただきました。
ひまわりのような明るい方で、知佳ちゃんの周りにはいつも笑いが溢れていました。
スタッフとも分け隔てなくお付き合いをされ、公私ともに何事にも全力で取り組む姿勢が今も忘れられません。
いまだに急逝されたことが信じられません、本当にショックです…」
1972年(昭47)札幌冬季五輪のスキージャンプ70メートル級(現ノーマルヒル)で優勝し、日本初の冬季五輪金メダリストとなった笠谷幸生(かさや・ゆきお)さんが今月23日に虚血性心疾患のため死去したことが26日、分かった。80歳。関係者によって24日に通夜、25日に告別式が営まれた。 【写真】72年札幌五輪、スキージャンプ70メートル級表彰台で手を振る金メダル笠谷幸生、銀メダル金野昭次、銅メダル青地清二 1943年8月17日、北海道の現・仁木町で生まれた笠谷さんは、98年長野五輪時にジャンプ部長を務めた兄・昌生さん(故人)とともにジュニア時代から活躍。余市高時代から海外遠征組に入り、明大1年時の64年1月に全日本選手権を制して日本のトップジャンパーとなった。64年のインスブルック大会で冬季五輪初出場。ニッカウヰスキー入社後の68年グルノーブル五輪を経て、71年には札幌で行われたプレ五輪の70メートル級を制して、初の日本開催となった冬季五輪のメダル候補として期待される存在となった。 伝説の71~72年シーズン。年末年始のジャンプ週間4連戦で開幕から3連勝し、日本人初の総合優勝は確実といわれたが、札幌五輪代表選考会が重なったため帰国した逸話は、今も欧州では語り草だ。72年2月6日、宮の森競技場で行われた70メートル級は1回目のリードを守り切り、日本人初の冬季五輪金メダリストに。銀に金野昭次、銅に青地清二と日本が表彰台を独占し「日の丸飛行隊」と呼ばれた。 76年インスブルック五輪後の10月に引退したあとは海外留学を経て、日本ジャンプ陣の強化に尽力。2010年のバンクーバー五輪では日本選手団副団長も務め、2018年には文化功労者として顕彰された。