〈追悼・桂由美さん94歳死去〉実は政治家の道も 桂由美の道しるべは“鳩山一郎の言葉”
ブライダルデザインで世界的に活躍したファッションデザイナーの桂由美さんが26日亡くなったことを株式会社ユミカツラインターナショナルが明かした。94歳だった。桂由美さんは1965年から日本初のブライダルファッションデザイナーとして活躍。日本中にウエディングドレスを広めたといっていい、まさに第一人者だ。そんな桂由美さんの仕事への情熱が伝わってくる過去の記事を振り返る。(「AERA dot.」2018年9月2日配信の記事を再編集したものです。本文中の年齢等は配信当時) * * * もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。ひょんなことから運命は回り出します。人生に「if」はありませんが、誰しも実はやりたかったこと、やり残したこと、できたはずのことがあるのではないでしょうか。昭和から平成と激動の時代を切り開いてきた著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらい、「もう一つの自分史」を語ってもらいます。今回はブライダルファッションデザイナーの桂由美さんです。 もうひとつの人生があったとしたら……。私、ふたつあるんです。ひとつは演劇の世界。もうひとつはあまりお話ししたことはないのですが、実は政治家の道もあったんです。 母親はきょうだいが多く、高等教育をあきらめざるをえなかったため、娘たちだけは大学へ行かせたいと思っていた。父は旧郵政省の官吏で、当時の給料は低かった。そこで母親は洋裁学校を立ち上げ、長女に後継者になってほしいと望んでいた。 私は共立女子大学の出身で、卒業間際の学長は元首相の鳩山一郎先生の妻、鳩山薫先生。学生委員をしていた私は学長先生との接点も多かったんです。 ちょうどそのころ、鳩山一郎先生が「友愛青年同志会」を設立なさった。各大学に声をかけたら、政治家を目指す男の子は大学にいっぱいいますから、男子学生は喜んで集まってきた。しかし、婦人部を取りまとめる若い女性がいない。そこで鳩山薫学長から白羽の矢を立てられたのが私だったんです。結局卒業後も、婦人部長の活動は続き、衆議院選に出る鳩山一郎先生のために、選挙カーに乗ってウグイス嬢もやったんですよ。 母親の洋裁学校を手伝うようになってからも、政界へのお誘いはありました。当時都議会議員だった鯨岡兵輔先生(元衆議院副議長)が1963年に国政に立候補されるとき、都議会の議席が空くから選挙に、というんです。「きっとやれる。私がバックアップするから」と。 母は慌てましてね。なにしろ跡取りですから。「お願いですから、この子を政治の世界に誘うのだけはやめてください」って頭を下げていたのを覚えています。
結局、政治家の道には進みませんでしたが、当時、鳩山一郎先生が私におっしゃった一言は、今も指針になっています。「人間は、無限に伸びる可能性を持っている。だからこの先どんな道に進んでも、もうこれまでだ、と自分であきらめるのはよしなさい。少しでも上を目指してみなさい。必ず伸びますから」って。 母の洋裁学校を継がなければならないという私の家庭事情は理解してくださっていました。若者への最大限のエールだったんですね。 ――政治家ではない、もう一つの自分史は、演劇の道。文学座付属演劇研究所第1期生に応募し、合格者60人の一人となる。政治の道に誘われる前は、一日の半分を大学で過ごし、もう半分は稽古場で過ごしていた。 私には子供のころから、演劇界に進みたいという夢がありました。俳優になろうなどと思ったことは一度もなくて、舞台が作りたかった。石井ふく子さんのようなプロデューサーになりたかったんです。 大学1年のとき、一度は文学座の研究生にもなりましたが、やっぱり1年間、文学座にいて感じたのは、共立では井の中の蛙だったんだと。みんなからちやほやされて、天才だ、なんていわれて……。 文学座ともなると、その程度の才能の持ち主なんて、掃いて捨てるほどいるわけですよ。そういう人たちに演劇論をふっかけてもコテンパンにやられてしまう。学校演劇をやってる分にはよかったんでしょうけど、この世界に入ってみたら、とんでもない人がいっぱいいるんだなと。限界を悟りました。 グループリーダーの芥川比呂志さんに、母が直接相談したんです。作家の芥川龍之介さんのご長男です。母は、私に洋裁学校を継がせたがっていること、私が大学生活と両立していることなどをお話ししたら、芥川さんは「これからの時代、大切なのはインテリジェンス(知性)だ。大学でしっかり、知性を磨いていらっしゃい」。敬愛する芥川さんの言葉ですから、素直に受け止めました。
それで、大学に戻って講義を聴いているうちに、ふと気づいたんです。私は縫うのは下手だけど、デザイナーとかスタイリストとか、ファッションの世界にはいろんな道があるんだって。 ――演劇の道。政治の世界。さまざまな分かれ道があったが、次第に一本の道に収斂していく。大学の後半には文化服装学院の夜学にも通い、洋裁の基礎を学ぶ。卒業後は、パリに1年間留学。その後、乗り出したのはブライダルの世界だった。 1960年、ローマオリンピックの年に、日本のファッション界としては初めて、15人の視察団を組んでヨーロッパに渡りました。ローマから各地を巡って、最後はパリ。私はそこに残って、1年間、立体裁断を徹底的に学びました。 帰国後、その技術を学校の生徒たちに伝授するんですけど、当時の洋裁学校は花嫁修業の場。母の後を継いでも、これで終わるのかな……って歯がゆい思いをしていました。 日本ではまだ誰もやっていない婚礼衣装をやろうと思ったんです。ファッションのなかで一番、演劇性を持っている。結婚式っていうのは一生に一度の、プライベートのイベントですからね。ファッションの中で最も、私が培った演劇的要素が生かせるジャンルなんですよ。 そのころの結婚式はまだまだ和装が中心。ドレスで挙式する人は、全体の3%ほどしかいませんでした。ビジネスとしては厳しい。でも、そのとき、「自分であきらめるのはよしなさい。少しでも上を目指してみなさい」という鳩山先生の言葉が私の背中を押してくれました。 ――桂由美ブライダルサロン、という小さな店を開いたのが1964年。人生を決定づけたのは、世界的なデザイナー、ピエール・バルマンとの出会いだった。 オープンから3年後ぐらいだったでしょうか。京都の貸衣装店から、デザインを依頼されたんです。私ともう一人、デザイナーとして起用されたのが、なんとピエール・バルマンだったんです。それを聞いて、一も二もなくお受けしました。皇族の方のイブニングドレスをデザインしたほどの世界的デザイナーです。
桂由美亡くなる
️ 桂由美さん、94歳で永眠
日本のブライダルファッションの草分けとして知られるデザイナー、桂由美さんが2024年4月26日に永眠されました。94歳でした。
桂由美さんは、1930年に東京で生まれ、1964年に日本で初めてとなるブライダルサロンをオープンしました。その後、和のテイストを取り入れた斬新なデザインで人気を博し、70万人を超える花嫁にドレスを提供するなど、日本のブライダル業界の発展に大きく貢献しました。
桂由美さんの訃報を受け、多くの著名人が追悼の言葉を述べています。
- 元宝塚歌劇団星組トップスターの湖月すみれさん: 「桂由美先生、ありがとうございました。永遠に憧れの女性です。」 [1: https://news.yahoo.co.jp/articles/f17be1e4a0dc94ef9d43ad7a2f1fb238c2b43597]
- タレントの眞鍋かをりさん: 「桂由美先生、安らかにお眠りください。先生のドレスを着せていただいたことは、私の人生にとって宝物です。」 [2: https://www.tv-asahi.co.jp/smt/f/geinou_tokuho/hot/?id=hot_20240430_090]
桂由美さんの功績は、日本のブライダル文化に深く刻まれることでしょう。ご冥福をお祈りいたします。
Sources
- 「ブライダルの伝道師」デザイナー 桂由美が死去、享年94: https://news.yahoo.co.jp/articles/f17be1e4a0dc94ef9d43ad7a2f1fb238c2b43597
- 亡くなる前日会った…キャシー中島「寂しい」《追悼・桂由美さん》: https://www.tv-asahi.co.jp/smt/f/geinou_tokuho/hot/?id=hot_20240430_090
- 桂由美さん、94歳で死去 ドレスで“ブライダル革命”「ユミカツラ ...: https://woman.excite.co.jp/article/lifestyle/rid_OriconStyle_2324956/
- 桂由美さん死去 デザインドレスは芸能人の晴れの日を彩り ...: https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/dailysports/entertainment/20240430045?fm=latestnews
- 桂由美: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E7%94%B1%E7%BE%8E
- 桂由美の死因は急死(突然死)?持病など病気の可能性について ...: ht





